・ 宝永の大地震と若葉祭(柴田晴廣)

  
別に奇を衒ったわけではない。

若葉祭について少し詳しく解説したものであれば、
若葉祭の笹踊が始められるのは宝永5(1708)年からと書かれている 。

前年の宝永4(1707)年10月4日(旧暦)、推定マグニチュード8.6とも8.7ともいわれる巨大地震が日本列島を襲った。
昨年3月の東日本大震災以前で、記録に残る最大規模の地震だ。追い討ちをかけるように、11月23日(旧暦)には、富士山が大噴火している。
  
この地方の被害も大きく、吉田城本丸御殿が倒壊し、それ以降再建されることがなかった。
吉田宿呉服町の住人・林自見(1694~1787)は、『三州吉田記』に、12月21日(旧暦)、吉田藩主・牧野成央(1699~1719)から地震見舞として金品と酒が振舞われ、大日待ち (注)をやった旨を記している。
  
(注)「日待ち」の意は、徹夜して日の出を待つこと。ここでの「大日待ち」は振舞われた酒を、夜を徹して呑んだ宴会をいう。


宝永の大地震当時、牛久保は旗本領であったが、吉田藩を治めていた牧野氏(のちに、日本三大稲荷の一つにも数えられる笠間稲荷のある常陸笠間で、明治維新を迎える)により、ゆかりの地・牛久保にも酒などが振舞われたのであろう。 

一般に笹踊の囃子方たるヤンヨウガミが酔っ払って路上に寝転ぶ姿は、
戦国時代、牛久保を治めた牧野氏が領民を城に招き、酒を振舞い、感激した領民がそのことを後世に伝えるために始めたとされる。
  
しかし牛久保で笹踊が始められるのは、牧野氏が牛久保を去って100年 以上経ってからのことだ。
また笹踊一行は、牛久保城址から出発するのでもなければ立ち寄ることもない。
  
そもそも戦国時代に城に領民を招けば、スパイが潜り込むこともある。戦国を生き抜いた牧野氏がそのようなことをするはずはない。

上述のように、当時牛久保は旗本領であった。他領に酒を振舞えば越権行為だ。
それゆえ戦国の昔にあったこととして、その感謝の気持ちを伝えたのだろう。